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『桜井家文書』-戦国武士がみた戦争と平和- 神奈川県立博物館【コレクション展】

time 2020/08/15

『桜井家文書』-戦国武士がみた戦争と平和- 神奈川県立博物館【コレクション展】

 

http://ch.kanagawa-museum.jp/exhibition/4256

 

桜井武兵衛の名を最初に知ったのは、戦国時代の戦闘における馬の役割についての論争華やかし頃に読んだ論考だったか。

鈴木眞哉氏などが主張した、「騎乗の武士も下馬して、徒歩で戦うのが戦国時代の基本的な戦闘スタイルであり、騎馬突撃といった騎乗戦闘が行われることは稀であった(大意)」という「従来の常識を覆す」見解は歴史ファンに大きなインパクトを与えたが、それは極端な主張とする研究者からの反論も行われ、かなり刺激的な応酬が交わされていたように思う。

当時読んだ反論の一つに、戦国武士が自らの戦功を書き残した「覚書」には、騎乗による戦闘の具体例が数多く記されているとあり、その一例として北条氏家臣だった桜井武兵衛の名が挙げられていたのだ。

戦場から撤退しようとする敵を騎馬で追い詰め、討ち取って首級を挙げたという武兵衛の回想録を読むと、血腥い戦国時代の合戦の情景が生々しく浮かび上がってくるようであった。

ゲームではメジャーな戦国大名が戦場で大暴れしていたりするが、実際の戦国時代の最前線を馬で駆け、銃槍を握り走り回っていたのは、桜井武兵衛など中堅・下級クラスの武士であり、職業戦闘員としての武士・侍という存在を改めて認識させられたのである。

その後も研究者の著作などで桜井武兵衛の名を見かけることはあったが、名だたる戦国武将に比べればいわばモブキャラ(その他大勢)であり、まさか神奈川県立歴史博物館でこの男を主人公とした企画展が行われるとは思いもよらなかった。

今回開催された理由は、ご子孫から寄贈された「戦功覚書」を含む桜井家文書の修復作業が終わったからだという。

企画展の最終日前日になんとか間に合ったが、追加で催された学芸員の解説も聴くことができて、むしろ幸運であった。

まずは展示室に向かうと、廊下の壁に桜井武兵衛が仕えた北条氏康・氏政・氏直に結城秀康・松平忠直の肖像画が掛けられており、桜井武兵衛がまさしく戦国時代の真っ只中から徳川の治世までの時代の生き証人であることを示していた。

戦国時代の文書の折り畳み方? の体験コーナーも設けられており、その後に担当学芸員の方がコンパクトに解説されていたが、文書というものは文面だけでなく、折り方一つ見ても様々な情報が含まれているのだ。

当時の武士はそういった慣習や儀礼にも通じていなければならなかったのであろう。

それが仕事とはいえ、合戦に出れば命のやり取りを行い、家では武芸と教養を身につけるように努めながら、子弟を教育していかなければならない。

武士というとカッコ良さの象徴のようなイメージがあるが、実際は生き永らえていくために大変な思いをすることも多かったに違いない。

桜井武兵衛が父の死去により名跡の相続を認められたのは天正12年。

一族の代表者になり槍働きで頑張ったのか、天正14年には上州に新たな所領を与えられている。

だが、数年後には何らかの事情で年貢が取れなくなったようで、別の郷村に替えてもらう文書があり、当時の不安定な所領経営の実態を垣間見るようで興味深い。

この頃から北条家中では、豊臣政権と対決か臣従かを巡って議論が喧しくなっていくのだが、重要な会議に参加できるような立場ではなかったと思われる桜井武兵衛と家族たちは、どのような気持ちで己の行く末を案じていたのであろうか。もしくは、合戦と所領経営といったことで毎日頭がいっぱいだったのかもしれないが‥‥。

その4年後の小田原攻めで主君の北条家は降伏と没落の憂き目に遭うわけだが、武兵衛は氏直から(元)在籍証明書を発行してもらい、結城秀康の家臣として雇用される。

小田原合戦時には族滅も覚悟しただろうが、生き延びてひと安心も束の間、一族を養うために再就職先を探さなければいけなかったのである。

結城秀康は武名高き者を好んで抱えたようで、北条五代記にもそのエピソードが登場する。武兵衛も秀康に請われ、幾多の合戦の功名譚を語ったことであろう。

しかし、戦乱は鎮まっても桜井家はまだまだ波乱含み。

関東から越前に転封して間もなく結城秀康が早逝したため、その嫡男である松平忠直を主君と仰ぐことになり、気に入られたのか厚遇を受けつつも、重臣同士のトラブルが生じて忠直に出兵を命じられ、この時に嫡男を喪っている。(越前騒動)

すでに関ヶ原から十年以上。乱世の記憶も薄れてきた頃に、まさか家臣団の内紛で跡継ぎが討ち死にするとは思っていなかったのではないか。

忠直はそれから数年後の大阪夏の陣に出陣し、家臣が真田信繁を討ち取る功名を立てている。

真田との敵対関係がこじれた結果没落した北条家の元家臣、それも上州に所領を持っていた武兵衛としては、その一報を聞いてどう思ったのか少々気になるところだ。

ところが忠直は、この「武功」の論功行賞が不満で幕府に反抗的になり、ついには隠居・配流に追い込まれていくのもまた運命の皮肉だろうか。

「忠直のご乱行」として小説などで面白おかしく描かれてきた騒動の真相をを、武兵衛は家臣の一人として目の当たりにしてきたわけである。

「我等はしりめぐり之覚」が記されたのは、この後の時代だと推定されている。

合戦時の記録には、証人としてその場にいた武将やその子息の氏名と現住地まで記されていたりする。

自己申告の回想記ゆえに「これは嘘や大袈裟ではなく、ちゃんと証人もおりますぞ」という証なのだろうが、没落した大名家の家臣同士がこの時代まで交流を続けていたことを示す興味深い史料にもなっている。

戦国時代の真っ只中に戦場を「はしりめぐり」武功を立て、没落した主君を替えて太平の時代まで生き延びたものの、思わぬ騒動から嫡男を喪う。

それが武士の宿命とはいえ、己の人生を回想する武兵衛の胸中には、どのような想いが込み上げてきたのだろうか。

今回の企画展で展示された文書は忠直の時代で終わるが、桜井家は藩主を継いだ忠直実弟の直政に従って信州松本から出雲松戸へと移り住み、家名を繋げていく。

家臣たちの集まりのなかで、あるいは家中の集まりや子弟教育のなかで、武兵衛が書き残した「覚書」は、子孫たちの誇りの一つとして受け継がれていったのであろう。

桜井武兵衛本人も、まさか死後400年以上も経ってから、北条家本拠の県立博物館で己が遺した文書の企画展が行われるとは想像もできなかったに違いない(当たり前だがw)。

学芸員の解説では、ご子孫がご先祖の文書を非常に大切に保管されていたとのこと。

近年は省庁などでご都合主義的な記録破棄が常態化してきているが、記録を残していくことの重要性を改めて思い知らされる企画展でもありました。

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