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『小田原合戦と北条氏』黒田基樹 著 <小田原合戦に至る経緯を近年の著作から整理してみた 2 >

time 2018/11/21

『小田原合戦と北条氏』黒田基樹 著 <小田原合戦に至る経緯を近年の著作から整理してみた 2 >

 

前項

「秀吉の武威、信長の武威」黒嶋敏 著 北条氏に関する近年の研究者の著作から 小田原合戦の原因をいま一度整理してみた〈1〉

では、

小田原合戦の原因とは、秀吉から交渉役として北条氏に派遣された「取次」が、双方の主張や要求を正確に伝達せず、不信感が拡大していった結果、武力衝突に発展してしまったのではないかという可能性を考えてみた。

双方の主張に食い違いが見られる不可解さを、「秀吉の策謀」という視点で仮説を提示したのが、2013年に上梓された森田善明氏の著作『北条氏滅亡と秀吉の策謀』である。

 

森田氏の仮説をまとめると

・秀吉は当初、北条氏を従属させるつもりだったが、17年の春頃に討伐に考えを改めた

・北条氏を討伐するための策謀を秀吉と真田昌幸が共謀し、沼田領裁定で北条氏を罠を嵌めたのではないか?

・名胡桃城事件は真田と秀吉のでっちあげであり、身に覚えのない北条氏を一方的に断罪して「北条征伐」を強行した。

その論拠の一つとして、秀吉が長柄正家を「兵糧奉行」に任じた書状と、上杉景勝に軍役を命じる書状を挙げている。

正家には遠征の準備として兵糧二十万石を用意せよと命じ、景勝には来春3月に小田原攻めに参戦することを命じた書状である。
(出典は「碩田叢史」と「覚上公御書集」)

この書状の日付には「十月十日」と記されている。

つまり、「北条に名胡桃城が奪われました」と真田が秀吉に報告する11月以前に書かれており、10月10日の時点で秀吉はすでに北条討伐を決定していた証拠とする。

これを大きな根拠のひとつとして、「名胡桃城強奪」は小田原攻めのために秀吉に捏造された事件であり、無実の北条氏が濡れ衣を着せられたのではないかという仮説を示している。

城郭研究者の中田正光氏も『最後の戦国合戦「小田原の陣」』で、「十月十日付書状」を取り上げている。

 

 

中田氏の推論では、この秀吉の軍事行動令により、もはや開戦は避けられないと錯誤した北条氏が、名胡桃城を奪取したと見ている。

文面をそのまま受け止めれば北条征伐のための軍役を命じたように見えるが、内実は沼田領を含めた関東の今後の統治上の制作を平和裏に確実に進めるための軍隊派遣であり、北条攻略を目的とした軍隊派遣ではなかったと思われる。

最後の戦国合戦「小田原の陣」』より

ところが、これを秀吉による武力制圧が開始されたと受け取った北条氏は、戦略上の要衝だった名胡桃城を「手中にしてしまった」。

これが秀吉を刺激し、小田原攻めを招いたという仮説を展開している。

中田氏は城郭研究者という立場から、主に軍事的な視点で「名胡桃事件」の経過を推測したと思われる。

当著は2016年に『北条氏滅亡と秀吉の策謀』と同じ洋泉社歴史新書から刊行されており、森田氏の説を踏まえたうえでの仮説なのだろう。

両者が取り上げた十月十日付けの「碩田叢史」を出典とする書状については、黒田基樹氏も『小田原合戦と北条氏』で見解を述べている。

 

写本によって十月十日付とするものと「十一月十日」付けとするものが伝えられているが、前者は時期が合致しないので、月付けの誤写であろう。

さらに、

(十一月)十日の時点で関東出陣が決定されたとは考えられないから、日付は「十日」ではなく正しくは「廿日(はつか)」ではなかったかと推測される

とする。

黒田氏の「写本により違いがある」「十日は二十日の書き間違い」という見解の正否は、当ブログ筆者には判断できる知識がない。

古文書には写し間違い、書き間違いが珍しくないことが研究者の論文や著作に頻出するが、ここでは各説の紹介に留める。

中田氏はさらに『加沢記』や『沼田根元記』といった史料、城郭研究者の山崎一氏の著作などから「事件」の背景を探っている。

そのなかで、秀吉の弾劾に対して、「名胡桃城は奪ったのではありません。(その証拠に)彼の城主、中山の書付を送ります」と弁明する氏直の書状に登場する「彼の城主中山の書付」についても考察している。

『戦國遺文 後北条氏編4』より画像を引用

 

 

名胡桃の西に築かれた中山城の城主・中山右衛門尉は名胡桃城主でもあったが、天正10年に真田方として北条方の城を攻め、討死した。

その際の遺言状で、北条氏との間に名胡桃城を引き渡す合意を交わしてした可能性があり、北条氏はその書付を証拠にして、名胡桃城は引き渡されたと主張したのかもしれない。

『最後の戦国合戦 小田原の陣』より

右衛門尉には九兵衛尉という弟がおり、久兵衛尉が名胡桃城の城代となり、北条を城に引き入れて奪取したことが『加沢記』に記されているという。

従来、「名胡桃城事件」の説明に使われてきた『加沢記』は、江戸時代前期に聞き取り等を元にして真田藩士が著した記録だが、史実とは異なる記述もあるという。

そのため、真田氏にとって都合よく書かれている可能性があり、鵜呑みにはできない。

結局、現在まで知られている史料の範囲では、「名胡桃城事件」の真相は不明としか言いようがない。

しかし、天下人・秀吉に対する弁明に、無名の地衆(地侍)に過ぎない「中山の書付」を提出しようとした氏直の真意はどこにあるのだろうか?

これを、

「氏直自身も裁定違反と認識した上で名胡桃城を奪取せよと指示を出していたが、秀吉に咎められ、苦し紛れに考えた虚偽の言い訳」

と見るか、

「現地・沼田からの報告を受けたうえで、氏直の認識と見解を率直に述べた」と見るかで見方が分かれる。

前者であれば北条側の認識の甘さであり、「時代の流れを読めずに滅びていった、愚かな地方大名」という評価も妥当かもしれない。その場合、これから先の文章はすべて無為に終わる。

しかし、秀吉との交渉の過程では、氏政と氏直はここまでかなり慎重な対応を行ってきたように筆者には思える。

氏政と氏直は沼田城の引き受けの際、秀吉の使者と真田を刺激しないようにと担当者に具体的な指示を書き送っている。

沼田城の引き渡しは7月下旬に行われたと見られ、9月には責任者として派遣された猪俣邦憲による統治が始まる。

名胡桃事件の直前の10月中旬まで、氏政上洛のための臨時徴税を指示する書状が発給されている。

ここまで上洛の準備を穏当に進めていた北条氏が、名胡桃城を真田領と認識しつつ、「切り取り(領地の拡大)は引き続き続行」というリスクの高い戦略を停止・撤回せず、新たに送り込んだ責任者の猪俣にも「機会があれば真田領を奪取せよ」といった指示を出し続けていたとしたら、政策・戦略に理解しがたい矛盾が生じていたことになる。

氏直にとっては、名胡桃「奪取」による秀吉の糾弾は想定の範囲外だったのではないか。

そう考えたほうが、前後の流れから見ても矛盾が少ないのでないかと思えるのだが‥‥。

 とはいえ、その想定でも様々な状況が考えられる。

氏直の弁明状を素直に読めば「名胡桃で起こったことはついては一切関知しておりません。そもそも、すでに真田から引き渡されているため、奪い合いなど起こりません」と解釈するのが妥当だと思われる。

これを率直な本音だとすれば、氏直は名胡桃を北条領だと認識していたことになる。

氏直の意向を無視した、中山や猪俣などの独自行動であれば、実行者に罪を押し付けて管理責任を回避するような弁明も考えられるはずだが、氏直の主張はあくまでも「名胡桃は北条領」である。

氏直の主張には、相応の理由や根拠があったと考えたほうが自然だと思われる。

しかし、真田氏と秀吉は名胡桃は真田領と認識していたため、北条氏を糾弾した。

氏直の弁明を虚偽ではないとした場合、ここでも両者の認識の乖離が生じていることになる。

弁明状によれば、秀吉の使者(津田・富田)による裁定時に北条領となった中条の地は、未だ真田から引き渡されていない、とある。

吾妻地区では真田が百姓を移動させてしまい、無人の地を引き渡された。

しかし「これらは小さな事です」(から問題にしませんでした)と氏直は述べている。

北条側から見れば、名胡桃もそういった状況にあった可能性も考えられる。

『加沢記』の記述も北条側から見れば、名胡桃は真田氏から北条氏に引き渡される裁定を受けたはずなのに、「鈴木主水」など真田方武将が残って引き渡しを行っていなかった。(真田氏からすれば、名胡桃は自領であるという認識だったが)

そういった状況で「名胡桃の本来の城主は自分」と北条氏に主張していた中山という武将が、軍勢の派遣を頼み、城を占拠した‥‥といった可能性も考えられるだろうか。

他にも『小田原合戦と北条氏』で黒田氏は、

名胡桃の地については、先の割譲の際に、百姓屋敷のみとなっていたはずであり、すなわち城郭は存在しなくなっていた。

といった弁明状の解読例を示している。

仮にこれを事実とすれば、北条氏は「真田はすでに名胡桃城の維持管理に必要な建物を破却した」と捉え、所有権を放棄したと判断しても不自然ではない。

沼田城の引き渡し時は停戦状態だったため、真田方の武将が名胡桃城域に定住していなかった可能性も考えられるかもしれない。

もちろん真田氏からすれば「城の所有権は放棄していない」という認識であろうが。

弁明状に挙げられた事例から想像すると、名胡桃城周辺の土地や村落の領有権も両者で認識が異なっていた可能性もある。

そもそも現代のような高精度の地図がなかった時代であり、河川を境界にしても台風などで大きく流路が変わり、村が分断されることもあった(多摩川流域の村落など)。

それを裁定するのが津田・富田の役目だったはずである。

しかし、この両使にとっては、ようやく決定した氏政の上洛を穏便に済ませて、秀吉に功績を認められることが最優先事項だったのではないだろうか。

富田・津田は沼田城引き渡しの際、「北条氏邦が秀吉の指示を破って大軍を引き連れてきたことを報告しなかった」と秀吉から後に叱責を受けている。

北条側に違約とされる行為があったことを報告しなかった理由は、報告すれば秀吉が北条氏に対して怒り、すでに決定していた穏便な従属が白紙に戻ってしまう可能性を不安視したためではないだろうか。

そうなってしまえば、今まで取り組んできた自分たちの仕事が水泡に帰してしまう。

そこで筆者が想像を膨らませてしまうのは、領界を決める際にも、北条氏側の責任者の前では、北条氏が不満を募らせないような裁定を下した可能性である。

俗っぽく書けば

北条側責任者「この地区は、ここからあそこまでが北条領ですよね?」
富田・津田「う~ん‥‥(どうしようかな)」
(この辺りは北条と真田の領界の主張が複雑に入り組んでいて、線引きが難しい‥‥。かといって北条の機嫌を損ねて、せっかく決まった氏政の上洛を撤回されたら、オレたちのこれまでの仕事が無駄になるだけでなく、失敗の責任を負わされそうだし‥‥)

といった配慮や忖度が働いた可能性を考えてしまう。

とはいえ、国境の裁定は、双方の責任者の立ち合いのもとで行われたと思われる。

対して、名胡桃の「事件」に関しては、氏直自身も弁明状で「本当かどうかはわかりませんが」といったニュアンスで語っているため、現地の人間が氏直に対して事実と異なる報告を行った可能性もある。

そもそも、北条や真田、秀吉といった勢力の思惑だけでなく、沼田周辺は境目(国境)の地域ゆえに以前から紛争が繰り返されており、地衆と呼ばれる地元勢力の従属先も不安定だったようだ。

丸山和洋氏の『真田四代と信繁』によれば、天正10年に北条氏が中山城を攻略した際も、「(真田方だった)沼田衆の中には北条側に出奔した者も少なくなく、氏直は彼らを中山城に配置している」とある。

 

地衆にとっては、生き残るために上位勢力の顔色を伺いながら各自の判断で従属先を変えていただけに過ぎず、大名側の認識より実際の勢力図は不明瞭で、所属や敵味方の認識も流動的だったのではないだろうか。

さらに想像を拡げれば、沼田周辺には境目の地域に見られる「半手」的に従属先が曖昧な地衆や村落が存在していた可能性も考えておきたい。

(半手=国境地域で両方の勢力に半ば従属しつつ存続している領主や村落。北条氏と武田氏の国境地域の国衆・小山田氏や、東京湾沿岸の村落で確認されている)『戦国江戸湾の海賊』など)

 

地衆たちにとっては、中央政権や大名といった上位勢力が決定した政策や戦略よりも、自身が生存するための領地や権益の確保が優先事項であり、それが政権や従属する大名の意図に反した衝突に発展することも珍しくなかっただろう。

また、名胡桃事件の説明に定説のように使われてきた「沼田城の猪俣邦憲が軍勢を送った」という記述も『加沢記』が初出らしく、他に信頼性の高い史料での裏付けはないという。

偏諱や書状などから見ても、猪俣は武将としての高い能力を評価されて最前線の沼田城に送り込まれたとみられる。

そして、名胡桃事件後も叱責や処分を受けることなく、北条一族から激励や防衛についての指示を受けている。

つまり、猪俣が名胡桃事件に関わっていたとしても、北条氏の戦略や指示に反したものでなかった。あるいは責任外の事件とされたことになる。

責任外とされる状況を考えれば、猪俣は名胡桃事件に直接関わっていない可能性も出てくる。

この想定では、「中山地衆」や「沼田衆」といった現地勢力による争いが名胡桃で生じたが、9月に沼田城に派遣されたばかりの猪俣の責任外とされた‥‥といったケースが想像できるだろうか。

猪俣の指示で軍事行動が起こされたとしても、「裁定により名胡桃は北条に引き渡されており、これは秀吉の裁定に反したものではない」という認識を持っていたと考えたほうが、矛盾が少ないのではないか。

北条家の意向を無視した勝手な判断であれば処罰が下されるはずだが、猪俣は名胡桃事件後も沼田城に留まり、氏政から激励の書状を送られている。

前述の通り、氏直と氏政は富田・津田を迎えるにあたって慎重な指示を送っており、その後も上洛の準備を着々と進めている。

ここからも、氏直自身は名胡桃を北条領と認識していたと考えたほうが矛盾が少ないのではないか、と思えるのだが‥‥。

 

<3>に続きます

 

補足

猪俣邦憲と弟の富永勘解由左衛門

猪俣には富永勘解由左衛門という弟がおり、兄とともに北条家臣として活動していたことを示す史料が遺されている。

 

webで検索したところ、金沢には加賀藩士となった富永勘解由の屋敷跡と菩提寺があり、両者の墓も存在するという。

それがどこまで史実を反映しているのかわからないが、史実であれば、兄の猪俣邦憲とともに活動していた勘解由は、前田家にとって採用に値する人材だったことになる。

小田原合戦後、「邦憲・勘解由兄弟が、主君である北条家の意向を無視した無責任な行動に走り、それが主君を滅ぼす原因になった」という認識が広まっていたのであれば、再仕官も難しくなることが想像される。

しかし、前田家は勘解由を旗本として召し抱え、城下町に屋敷を構えたことになる。

後世の軍記物などに描かれる「主君の滅亡を招いた無知な猪武者」という猪俣邦憲のイメージは、実像とは違うものだったのではないか‥‥と、金沢の街の一角に伝わる歴史に想像を巡らせてしまう。

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