
『小田原合戦と北条氏』黒田基樹 著 <小田原合戦に至る経緯を近年の著作から整理してみた 2 >
まで
小田原合戦の原因とは、秀吉から北条氏に交渉役として派遣された取次が、双方が提示した条件と主張を正確に伝えなかったため、誤解と疑念が拡大した結果、開戦に至ったのではないか? という推測をしてみた。
「名胡桃城奪取」と「上洛の遅れ」で秀吉の怒りを買った北条氏は、事実確認と弁明のために取次の妙音院を小田原に呼び寄せたようだ。
妙音院は氏政の上洛日程について、秀吉の承認を得ないまま、妥協案を提示していたことがわかる。先に秀吉が妙音院について、適当に取り繕う言動があった、といっている(後略)
黒田基樹『小田原合戦と北条氏』より
責任を問われた妙音院は、小田原に向かう途中で、秀吉の指示により家康に拘束されてしまう。
その後の動静は確認されていないようで、処刑されたか、追放処分を受けたようだ。
秀吉の承認を得ずに、妙音院が北条氏が求める条件で交渉を進めていた理由はわからない。
当時の妙音院の立場を考えると、富田たちと同じく氏政の上京を最優先に考え、双方の機嫌を損ねないように配慮したためではないだろうか。
ところが、秀吉に話すタイミングを伺っている間に名胡桃事件が起こり、秀吉の怒りを買う事態に陥ってしまった、と考えられないだろうか?
富田一白も津田とともに小田原に向かい、家康のもとで足止めか拘束を受けたが、その後に許されたようだ。
小田原合戦の翌年と比定される、氏直から富田に送られた謝礼状が残されている。氏直は家康と富田を介して、秀吉に赦免を懇願していたとされる。
戦国遺文〈後北条氏編 第5巻〉より
謝礼のための文面なので氏直の本音はわからないが、素直に読めば、望みが叶った喜びと謝意を富田に表しているように思える。
この書状から、小田原合戦後も富田と氏直の交信は続き、富田の働きかけも功を奏したのか、秀吉から赦免を受けたことが判る。
では、「名胡桃はすでに引き渡されている」「中山の書付を見ればわかります」「百姓屋敷まで検分したではありませんか」といった氏直の弁明の事実確認は行われたのだろうか?
それを示すような史料は、現在まで確認されていないようだ。
ここからも、「氏直の弁明は虚偽だったため、秀吉に詫びて許しを乞うしかなかった」という旧説が形成されたのだろう。
しかし、この時の氏直は、「北条家の再興」という重責を背負っており、再び秀吉の怒りを買うような主張は封印していたと考えられる。
そのために、家康だけでなく、富田にも「秀吉の赦免」の仲介を懇願していたのだろう。
いずれにせよ、豊臣政権下では、「上洛遅延と名胡桃城奪取は北条家の過ちであった」と結論づけられたと思われる。
死人に口なしで、そのほとんどの責任は氏政や氏照など、すでに亡き者の罪にされたのであろうか。すべては豊臣政権にとって、小田原合戦を正当化する方向に働いたことが想像に難くない。
それが自身の認識とは異なっていたとしても、氏直は秀吉に許しを請い、その裁定を受け入れるしかなかったと思われる。
そして、その後は豊臣政権の歴史認識が「史実」として後世に広まっていったのだろう。
名胡桃事件の直後、氏政、あるいは氏直が緊急に上洛すれば開戦は避けられたのでは? という問いが古くから繰り返されている。
「氏政の安全保障が無ければ上洛はできない」という氏直の返答は、「氏政はそもそも秀吉に臣従する気がなかった」という旧説では、「上洛の拒否や、引き伸ばすための言い訳」として捉えられてきた。
しかし、これまで整理してきたように、氏政も氏直も着々と上洛準備を進めていた。ところが突然、秀吉の怒りを買い、武力行使を示唆される緊急事態に陥ってしまう。
急ぎ上洛しても無事に帰還できる保証はない。そんな状況では、小牧長久手合戦後の家康の前例もあり、大大名家の最高責任者という氏政の立場を考慮すれば、同じような安全保障を要求することは当然のことだったのだろう。
しかし、これもまた、家康と同格以上の大名という自己認識を持ち、相応の処遇を求めていた北条氏と、もはやこれ以上、一大名に過ぎない北条氏に譲歩できないと判断した天下人・秀吉の認識の乖離なのだろう。
では、氏直が代わりに上洛すれば‥‥という仮定に対しては、氏直も現当主としてしかるべき安全保障を求めただろうし、そもそも未だ実権を握る氏政と、家臣団の合意を得ずに上洛を強硬することは、現実的にほぼ不可能だったのではないか。
とはいえ、氏政も氏直も、本音では豊臣政権への従属は苦渋の選択であり、本来乗り気ではなかったことが、小田原合戦に至った本質的な要因なのかもしれない。
それは氏政・氏直個人の性格以前に、戦国大名・北条氏の成り立ちからしても、独立性を奪われるような要求に抵抗や反発が生じるのは当然のことであろう。
また、先に信長への従属を選択した結果、足元を見られて軽んじられるような対応を受けたうえ、領国(上野)まで奪われたことをを苦々しく感じていたに違いない。
最後の“戦国大名”の称号にふさわしいのは北条氏政かもしれない
先頃、「応仁の乱」の著者 呉座勇一氏が、「歴史から学ぶな」とインタビューで発言し、賛否を呼んだ。
歴史上の出来事や人物を現代人の価値観や評価基準で断片的に切り取り、都合よく解釈することを危惧した発言なのだろう。
メディアで繰り返される「戦国時代に学ぶ」記事や企画も、「この武将はいかにして厳しい時代を生き残ったか?」という基準で人物の評価が決められていることが多い。
しかし、果たしてその歴史上の人物は、現代人と同じような価値観を基準にして選択と決断を行っていたのだろうか?
ここで留意しなくてはならないのは、現代社会での尺度からの評価ではなく、氏政が生きた時代に照らして評価することであろう。
(中略)
秀吉と戦争して滅亡し、自害した戦国大名は、この北条氏政が唯一であった。そこにはやはり、家名の存続を最優先させるような江戸時代の大名とは隔絶するものがあるといわざるをえない。
黒田基樹『北条氏政』より
中世の武家には、生き延びて家を存続させることを重んじる価値観と同時に、独立性や尊厳を保つためには命を賭した闘争も辞さず、敗れた時は滅亡を潔しとする死生観も同居していたのではないだろうか。
北条家臣として小田原籠城も経験した随筆家の三浦浄心は、北条家が優れた戦国大名であったにも関わらず没落した理由について、「運の末」や「天運が尽きた」ためだと説いている。
晩年は仏門に帰依した浄心ゆえの無常観的な解釈が含まれているのかもしれないが、当時の人間は我々現代人よりも、「天運」といった超越的な力が人の運命や時代の流れを決めていると捉える意識が強かったのであろう。
変化の激しい時代ほど、人間の意思を超えた偶然に左右されてしまう。それを体感していた古人たちは、人智を超えた「天命」という言葉で言い表したのではないだろうか。
そのような時代に生きた人間の判断を、後世や現代の価値順や思想で解釈し結果論で結論づけることは、様々な錯誤を招きかねない。
『北条氏政』によると、氏政が愚将とされるようになったのは、甲陽軍鑑を皮切りに、後世に書かれた軍記による評価が大きいという。
それは、「家名を存続させることが最も重要」とされた近世大名家の価値観とともに拡大していったようだ。
氏政が拘ったのは、あくまでも北条家の現状を維持したうえでの従属であったように思われる。そうした意味において、氏政は、まさに最後の戦国大名」と評することができるように思う。
氏政今吹毛の剣(よく切れる剣)を取り、乾坤を截破し太虚に帰す
辞世の句が真実であれば、最新の武力で運命を切り開いて、最後は「太虚」(気の原初形態)になった、と言っているところをみると、秀吉との戦争に敗れて滅亡することについて、決して後悔していたわけではないように思われる。
(中略)
それを氏政自身は後悔してなかったとすれば、統一政権への従属という選択は、必ずしも戦国大名にとって、重要な選択肢とはとらえられていなかったとことがうかがわれる。
あくまでも軍事力による存立こそが、戦国大名の本分であったとするならば、氏政は、最後まで戦国大名としての行動論理に徹していたといえるし、それは逆に、そこから脱することができなかったともいえるであろう。
『北条氏政』より
戦国時代の幕を開いたのは、のちに「北条早雲」と呼ばれる伊勢宗瑞だと言われる。
その四代目を継承した氏政は、曽祖父が切り拓いた戦国大名家の当主として生き、戦い、そして滅びていったのである。