古代アレクサンドリア図書館と視聴覚室の収蔵資料目録

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「北条五代記」三浦浄心 著

time 2019/01/06

「北条五代記」三浦浄心 著

時にはノスタルジーを込めて回想する
北条氏遺臣による戦国ナラティブ

歴史作家による戦国時代のエッセイ集はあまた存在するが
戦国時代に武士として生きた男の、回想エッセイ集ともいうべき本が「北条五代記」である。

著者の三浦浄心は永禄八年(1565)生まれ。
戦国時代の真っ只中に北条領だった相模の三浦に生を受け、20代半ばで小田原籠城から降伏による没落を経験する。

故郷で農業を始めるものの、経営が思わしくなく、江戸に出て商人になり成功したという。

晩年はあの天海僧正に帰依し、年(1644)に死去した。

もともと好奇心が強く読書家でもあったらしく博覧強記、中国古典から巷説まで該博な知識を縦横無尽に駆使して様々な題材に筆を奮っている。

それをまとめた冊子が「慶長見聞集」として刊行され、そこから北条氏にまつわるエピソードを抜き出した一冊が「北条五代記」と題されたという。

北条家臣時代が浄心の青春時代と重なるためか、回想にはどこか「古き良き時代のノスタルジー」を感じさせるものがあり、北条氏への称賛、擁護も多い。

浄心が伝聞した人物や合戦の逸話を読んでいくと、史実が口承により脚色されていく過程を見るようでもある。

また逆に、夜戦らしき描写がまったく出てこない川越合戦の記録や、「北条氏政は文武の名将」と評価するなど、後世に広まった俗説と反する見解が記されているのも興味深い。

すべてが史実として鵜呑みにはできないが、江戸時代の初期に「あの武将はこういった人物であり、戦国時代はこのような時代だった」と語られていた雰囲気が掴める。

結城秀康の家臣となった老将・朝倉能登守の馬術披露譚や、板部岡江雪斎の名裁きなど、浄心の語り口は饒舌かつ巧みで飽きさせず、後の講談の源泉を見るようである。

浄心は、北条家臣だったことに相当の誇りを持っていたようだ。

甲州、越後の出身者による信玄vs謙信の「最強論争」を見聞した章がある。

彼らから相対的に氏康を低評価する発言が出てくると、それをたまたま聞いていた老人が黙っていられずに反論し、氏康を擁護、両者を論破するといったエピソードが書かれている。

浄心は第三者としてそれを見聞した、といった設定で書かれているのだが、この「老人」は実は浄心本人なのではないかと思う(笑)。まるで現代のネット論争のようでもある。

浄心はアンチ武田家だったのか、信玄にも辛辣な人物評を下している。

先の逸話のように「甲陽軍鑑史観」が広まっていくのを目の当たりにするにつけ、信玄、武田軍とそのライバル謙信の神格化に対し、元北条家臣として看過できない、という気持ちがあったのかもしれない。

ネットを検索すると、浄心の父・茂信は、西伊豆の安良里城の城将を務めたらしき情報が出てくる。

仮に事実であれば、武田軍を敵として、港湾の守備や水軍の指揮を担っていたことになる。浄心の父は里見水軍との合戦で活躍したと記しているから、相応の信憑性は感じられるか。

浄心は父を早く亡くしたと書いているので、武田軍との戦闘で討ち死にした可能性もある。

信玄や武田軍の神格化を強く否定する浄心の心理を想像すると、戦国時代の「負け組」大名の家臣としての複雑な感情が垣間見れるようで興味深い。

また、小田原籠城時に鉄砲の激しい打ち合いが行われた一夜をありありと述懐する章があるが、これなどは従軍経験を持つ高齢者が、戦場の記憶を「我が若き日の追憶」としてノスタルジックに語ることもある事例に通じるものを感じる。

ちなみに当ブログ筆者は三浦浄心の出身地・三浦市で少年時代を過ごした。

浄心は三浦氏の庶流である出口(でぐち)氏だが、実は最後の三浦氏当主の道寸よりも、三浦氏嫡流に近い血筋である(道寸は扇谷上杉氏出身)。

出口という苗字は現在でも三浦に多く、ともに伊勢宗瑞(早雲)軍や里見軍と戦った三崎十人衆の苗字もまた地元に多い。

浄心の屋敷は現在の京急三崎口駅の近辺にあったようだが、今は何も遺されていない。

 

補足

(道寸滅亡時における出口家についての疑問を、いつか追記します)

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