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「秀吉の武威、信長の武威」黒嶋敏 著 北条氏に関する近年の研究者の著作から 小田原合戦の原因をいま一度整理してみた〈1〉

time 2018/06/18

「秀吉の武威、信長の武威」黒嶋敏 著 北条氏に関する近年の研究者の著作から 小田原合戦の原因をいま一度整理してみた〈1〉

小田原合戦の原因とは?

旧説では

北条氏政は驕慢ゆえに秀吉を過小評価し、小田原城の防御力を過信していた。

 そのため臣従を潔しとせず、上洛を先延ばししつつ防衛体制を固めていたところ、名胡桃城奪取事件が起こった。これは惣無事令違反であり、秀吉の怒りを買って小田原攻めを招き、ついに滅亡した。

現在の研究者による見解

同盟を結んでいた家康が小牧・長久手合戦後に秀吉に臣従した結果、北条家も臣従派が主導権を握り、実権を維持していた前当主・氏政自らの指揮で出仕(上洛)の準備が進められていった。

上洛資金を集めるためには期間が必要であり、その間も秀吉による領土裁定などに従いつつ、天正17年内に出発できるように準備が進められていた。

 同時に交渉決裂のリスクも考慮し、防衛体制も固めていた。

ところが、10月下旬に名胡桃城で紛争が生じ、秀吉は氏政に即時上洛を求めたが、北条側は拘束や国替されるリスクがあると考え、その保証を求めた。

しかし、秀吉は「もはや北条に上洛の意思なし」として、小田原攻めを決定する。

 

 この時の秀吉の書状は、名胡桃城奪取よりも、むしろ上洛の遅延に対して怒りを表している。

秀吉は氏政の上洛遅延を約束違反として弾劾しているが、
秀吉と北条氏の主張する「お互いが合意したはずの上洛時期」の認識は一ヶ月ほどズレており、それがなぜ生じたのかは不明。

その鍵を握っていると思われる取次(交渉担当者)たちは、秀吉の勘気を被って処分を受けている。

 

そこからさまざまな解釈が生まれ、氏政愚将論や、秀吉や真田氏の陰謀論などが唱えられてきた。

秀吉が小田原攻めを決意した
「北条氏政の上洛の遅延」はなぜ生じたのか?

黒嶋敏著「秀吉の武威、信長の武威」には
北条氏や東国大名との取次(交渉役)を担った秀吉の家臣たちの書状から
その実態について議論が交わされてきた「惣無事令」への疑問が提示されている。

 

 

豊臣政権は「惣無事令」として論じられてきた正式な「令」は発していないのではないか、というのが著者の見解である。

関東・奥羽の大名や国衆に臣従を迫るため、交渉役を担った富田一白や家康が、関白秀吉の「武威」を威光にして、「惣無事」という言葉を示威的に拡大・強調して使ったものではないか、といった解釈がなされている。

富田は出世志向が強かったらしく、同じく東国の取次だった石田三成とはライバル関係にあったようだ。

北条氏との取次を始め、他の勢力に送った複数の書状が残っているという。

三成は上杉・佐竹の支持派であり、浅野長政は政宗寄りのようで、懇意にしている大名に、他大名に先んじることのメリットを説いて上洛を薦めている。

北条氏と敵対関係にあり、三成を通じて秀吉政権と繋がっていた東国勢力が、新たに「関東惣無事」の責任者に任命された家康(北条と同盟関係)と関係を築かねばならなくなった機会に乗じて、富田が積極的に介入していったのではないかと著者は見ている。

しかし、北条氏規(氏政の弟)の上洛が決定したのち、天正16年9月に関東諸氏に送られた秀吉朱印状の副状は、三成の名で発給されているという。

これを著者は、秀吉は氏規上洛を家康・富田方の成果として認めなかったのであろうと述べている。

秀吉からすれば、「関東御静謐」(関東の戦乱の終焉)早期実現のために三成と家康・富田方を競わせたのかもしれない。

興味深いのは、伊達政宗が蘆名氏を滅亡させた摺上原合戦後の書状である。

三成は政宗に会津撤退を迫っているのに対し、施薬院全宗はそれを不問としている。

著者はこれを、豊臣政権が発令したとされてきた「惣無事令」を疑問視する例のひとつとして挙げている。

また、(秀吉の北条氏に対する)「弾劾状のなかには「惣無事令」のような前提が一切見られないことである。(中略)かりに「惣無事令」が大きな意味を持ちうる前提として存在としていたならば、文中に盛り込めば相手の難点を一層強調できたはずであろう。ところがそれは、微塵も登場しない」という著者の見解にも説得力を感じた。

 

こういったことから

取次の仕事術

について想像できるのは

 

秀吉政権の取次は、自分の担当する大名に、より早い上洛・臣従を実現させるほど秀吉から高い評価を得られる。

そのため、取次によって上洛を薦める文言、つまり勧誘や交渉の内容や条件も変化する。

現代でも契約を成立させようとする場合、相手が同意する条件を、担当者が譲歩や妥協できる範囲まで提示して交渉を進めていくのと同じであろう。

北条氏を恭順・上洛させるための交渉を担当した取次たちもそうだったと考えられる。

 

そこから、「上洛時期の認識の違い」の原因が浮かびあがってくるように思えてくるのだが‥‥。

さらに、「名胡桃城奪取事件」の背景にも取次が絡んでいた可能性も考えられるかもしれない‥‥。

この項続く

※ちなみに、伊達政宗が白装束で秀吉に遅参を謝罪した有名な逸話は、当時の史料では確認されていないとか。「秀吉の武威、信長の武威」より。

また、富田一白の読みは「いっぱく」とあるが、黒田氏の著作では「かずあき」とある。
どちらが正しいのかは???

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